おおきなかぶ
「おかあさん、これ読んで!」
「うん、どれどれ?」
泡のついた皿をシンクに置き、濡れたゴム手袋で水道を止めて、私は左を見下ろした。歯磨きを済ませたばかりの澪が両手で抱えた本の表紙を見て、私はつきそうになった溜息を慌てて飲み込む。
『おおきなかぶ』。
澪の顔が半分隠れるほど大きなその絵本の、表紙に書かれた黒文字のタイトルはどこか無機質で、やけにリアルなおじいさんやおばあさんや小動物たちのイラストと相まって、どことなく不気味な印象を覚える。それでも、読み聞かせのために数冊買った本の中で、これが澪の一番のお気に入りらしかった。
「えー、昨日も読んだじゃん、それ。」
「だってこれがいいんだもん。」
読んであげるから先に布団に入ってなさい、と言うと、澪は、はーい、と言いながら素直に布団の方に駆けていった。ピンクのイチゴ柄のパジャマを纏って、肩までかかる黒髪をさらさらと揺らしながら。
うんとこしょ、どっこいしょ。
澪が小さな声で呟くのが聞こえて、こらえきれない小さな溜息が漏れる。今日の晩ご飯はカレーだったので、スポンジは既に洗い落とせないほど茶色に染まっていた。
こんなときばかり、私は謙吾のことを思い出す。澪が寝静まった後や、ファミレスでの水仕事に追われている間ではなく、澪がいるこの古びたマンションで、例えば晩ご飯を作ったり、洗濯物を干したり、こうして皿洗いをしていたりするときなのだ。澪が特別聞き分けが悪いとは思わない。生まれると分かった途端に父親――になるはずだった男――に逃げられ、未婚の母になった私と2人で暮らしてきた4歳の娘にしては、澪は色んな意味で、よくやっている、と思う。ただ、謙吾と澪と3人での暮らしを夢見ていた私にとって、生活費を絞り出しながら生きる今の暮らしが、あまりに理想とかけ離れすぎていただけだった。
洗い物が一段落して、凝りに凝った肩を回しながら布団へと歩いていくと、澪は薄桃色のせんべい布団の中でうつ伏せになっていた。私の水色の布団との真ん中あたりに、あの『おおきなかぶ』が律儀に置かれていた。私が来たと分かった瞬間、澪がそのままの態勢で目を煌々と輝かせるのが分かる――これから寝る人の目とは思えないほどに。
「よし、じゃあ読んであげるから、読んだらおねんねするのよ。」
「はーい!」
澪の予想外に元気な声に、私の頭の中で小さく火花の音がした。
私は黙って布団に横になると、例の本を両手にとり、ページをめくり始める。音読するたびに、私はこの話のどこがおもしろいのだろう、と思ってしまう。ただ老夫婦と孫娘と小動物たちがかぶを抜くだけの話が、なぜ何百年も語り継がれ続けているのか、私には分からなかった。
「おじいさんは、かぶを抜こうとしました。せーの、」
というところまで読んだとき、私の声に澪が声をかぶせてきた。
「うんとこしょ、どっこいしょ! うんとこしょ、どっこいしょ!」
私がこの本を読み聞かせしたくない理由はこれだった。澪は、読み聞かせがこの掛け声の部分に差し掛かるたび、いつも私の声と息を合わせるようにして、満面の笑みで、私より元気な声で、「うんとこしょ、どっこいしょ!」と言う。一向に寝る気配を見せないので、結局別の本を読んだり、澪が寝るまでずっと添い寝しなければならなくなったりする。そんなとき、干したままの洗濯物や、テーブルに放置したままの家計簿をずっと頭の片隅に置きながら、私はまた謙吾を思い出す。
戦力になるのか疑わしいほど小さなねずみが出てくると、読み聞かせはいよいよ佳境に差し掛かる。
「おじいさんがかぶを引っ張って、おばあさんがおじいさんを引っ張って、まごむすめがおばあさんを引っ張って……」
なぜおばあさんはかぶではなくおじいさんを引っ張るのだろう。掛け声だけ揃っていても、服が千切れるだけでは意味がないだろうに。
「うんとこしょ、どっこいしょ!
うんとこしょ、どっこいしょ!
うんとこしょ、どっこいしょ!!」
今までにないくらいに大きな、無邪気な声で澪が繰り返す。咄嗟に、隣に聞こえるかもしれない、と思った。それを気にしなければならない程度には、このマンションの壁は十分薄かった。
「うるさい、隣の人に聞こえちゃうでしょ!」
絵本の中のねずみを見ていた澪が、弾かれたように私の方を振り向く。本を勢いよく閉じ、私は更に続ける。
「寝ないんだったら読まないからね、早く寝なさい!」
あ、しまった、とすぐに思った。隣人から苦情を言われるなら、きっと私の方だ。壁一面に、水を張ったカレーの鍋に、二人分のせんべい布団に、私の声が吸い込まれていく。澪は一瞬泣きそうな顔をして、でもすぐに口を真一文字に結んで、それから吸い込まれるように布団に頭から潜り込んでしまった。
咄嗟に、ごめんね、と布団の上から頭を撫でようと思って、やめた。布団の中で、澪の身体が小刻みに震えているのが分かる。貝殻にこもったやどかりを指でほじくるみたいに、今私が何をしようが全て無駄で、目も当てられないことのように思えた。本を枕元に置いたまま、私はできるだけ音をたてないようにして、布団から離れた。寝室の明かりを消すとき、もう布団は震えてはいなかった。おじいさんがかぶを握るよりもずっと強い力で、胸が握りつぶされていく感じがした。
月の出ない午後九時の夜空は、のっぺりとした果てし無い暗さがある。
たまに蛇口から水の滴るだけの静かな部屋で、洗濯物を畳み続けるには、最悪の夜だ。黙々と、できるだけ余計なことを考えないようにしようと思うのに、洗濯物の山から、昨日澪が着ていたパジャマやスカートを見つける度、途端に悲しく、惨めな涙が心に押し寄せる。
母親失格だ。
そう思えてならない。
澪の母親でいられるのは、私だけなのに。澪には――澪の心の拠り所は、私しかいないのに。
謙吾のことを思い出しそうになって、慌てて心の中で打ち消す。分かってる。堕ろせ、という謙吾に抗って、産むと言ったのは私だ。4つになるまでどうにかこうにか育ってくれた澪を見ていると、私は間違っていなかった、と改めて思える。謙吾と恋人同士だった、愛していた、という記憶はあるけれど、毎日少しずつ成長していく澪のほうが、何倍も愛おしい。
でも――心の中にぽつねんと浮かぶその言葉の先を想って、私は虚しくなる。どこからか飛んできた木枯らしが、錆びた扉の前を行き過ぎる音がする。
――でも、私を一人にしないでほしかった。
澪に寂しい思いをさせるまい、と選んだ融通の利くパート仕事で、貯金を切り崩しながら澪と二人きりで生きている自分を、誰かにせめて認めてほしい、と思うのは、我儘なのだろうか。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
あれだけ疎ましく思っていたあの掛け声が、ふと口を突いて出たことに驚いた。あのやけにリアルなかぶの絵が、一枚一枚、脳裏に蘇る。
(おじいさんがかぶを引っ張って。
おばあさんがおじいさんを引っ張って。
うんとこしょ、どっこいしょ。)
おばあさんは、かぶの根元が見えない代わりに、おじいさんを信じておじいさんを引っ張る。おじいさんには、おばあさんに引っ張られる感触が伝わる。おじいさんもおばあさんも、互いが互いを信じるからこそ、それぞれが全力を出して、そうすればいつかかぶは抜ける、と信じて疑わない。
絵本のある方を向き直ると、自然と、まだ毛布にくるまったままの澪が視界に入った。洗濯物を畳む手は、とうに止まっている。
(おかあさんがかぶを引っ張って。
澪がおかあさんを引っ張って。
うんとこしょ、どっこいしょ。)
気持ちを抑えきれなくなって、私は毛布の中の澪に駆け寄る。
なぜ私は、自分のことを一人だなどと思ったのだろう。
私には、澪がいる。澪が私を信じてくれているように、私も澪を信じなければならない。これから先、あと十何年、二人並んで歩いていくのだから。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
布団の中の澪を起こさないように、私は小さく呟きながら布団をさすった。暖房の効かない部屋で、布団の表面は冷たいはずなのに、不思議と中の温もりが伝わってくるような気がした。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
すると、布団の中から、小さな声がした。少しくぐもった、それでいて柔らかい声の持ち主が、くすぐったそうに身体をちょっとずつ動かすのが、掌で分かった。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
私の声と、布団の中の澪が重なる。私は、いつの間にか溢れ出た大粒の涙を、もうこらえきれない。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
布団を勢いよく剥がして、私は澪を強く抱きしめた。ごめんね、ごめんね、と背中をさすりながら続ける私の声が、震えているのが自分でも分かる。澪の目元も、少し赤くなっていた。
静かな冬の夜に、澪と私の周りだけが、ふんわりと暖かかった。