ブロッサム
中目黒の街に来ると、いつ来ても、私はいつかここに住みたい、と思ってしまう。
例えば、こうして中目黒駅の正面改札を出た辺りで人を待っていると、目の前に広がるのは殺風景な山手通りばかりで、とてもじゃないけど住みよい街とは思われない。ところが、そこから少し歩くと、春の弥生が待ち遠しくなるような桜並木があるし、それとは真反対のこんな秋晴れの日にだって、日々擦(す)れていく心を鮮やかに塗り替えてくれるような、小洒落たカフェが所狭しと立ち並んでいるのだ。
中目黒の改札で人を待つのは、私にとって一度や二度のことではなかった。友達とは――1, 2回はあるかもしれない。彼氏とは一度もない――いや、もしかしたら殆どが「彼氏」と言える人なのかもしれない。それは何だか、すごく虚しいことのような気がするけれど。
「レンタル彼女」というのは、他人の書いた「ものがたり」を生きる仕事だ。
依頼人が、私を彼女に見立てて、例えば水族館に行きたいと言ってくれるとき、私は表現しうる限りの笑顔を湛えて「彼」に向かって手を振る。彼女ができたと言って親を安心させたい、という依頼なら、私はできるだけ目立たぬように、それでいてひた向きに見えるように努める。上気したパートナーとどこか醒めた私のエチュードのような数時間は、決められたデート・プランと、時計の針と、相手の表情に身を委ねたまま、いつも呆気なく過ぎ去っていく。お互いのために、後腐れのある期待をさせないよう注意を払いさえすれば、それがすべてだ。
元彼(もちろんレンタルではない)と別れてすぐに買った安物の腕時計に目をやりながら、私は樋口さん――今日の依頼人――がどんな人かを想像する。2時間。指名料と出張料で1万3千円。カフェで二人で話すだけ、という単純なデート・プランだった。
「プロフィールに『趣味:読書』とありましたが、どんな本が好きとかありますか?」
プランを決めるための、簡単なメールのやり取りの中で、樋口さんが訊いてきた。趣味欄の一番後ろに書いた「読書」に、ストレートに食いついてきたのは樋口さんが初めてだった。
「最近あんまり読めてないんですけど、恋愛小説とか青春ものとか好きかもです!!」
少しでも文面が柔らかくなるよう努力したつもりだったのに、樋口さんの返事は、
「恋愛小説ですね、了解しました。」
だった。
樋口さんと2時間語り通すことへの不安の代わりに、今日行くことになっているカフェはそこそこ楽しみだった。「ブロッサム」というその店名は、Cherry Blossom――桜の花――を誇る中目黒の東屋としてはあまりに安直で、そこに愛らしさがあった。だが、極めつけなのは、その「ブロッサム」の看板メニュー――
「チェリー・パイが美味しいお店なんです!」
チェリー・パイという聞き慣れない名前と、樋口さんの興奮が伝わる文面は、未知の食べ物への興味を掻き立てるには十分だった。アップル・パイが美味しいのだから、チェリー・パイもそこそこの甘さと瑞々しさをもたらしてくれるに違いない。季節外れの桜色に浸りながら、樋口さんの恋愛小説譚に身を委ねることにしよう。
私の頭の中が樋口さんとチェリー・パイで半々くらいになったとき、少し大きな足音が、明らかに私の方に向かってくるのを私は感じた。
「白石さんですか?」
分かり易く肩で息をしながら、私の名前(本名ではない)を呼んだその男性は、中腰になって、ようやく私と背が同じくらいの人だった。縮れて膨らみ按配の黒髪が、黒いバケット・ハットを優しく支えていた。
「きらり、って呼んでください。それと、恋人同士なんですから、丁寧語じゃなくていいんですよ。」
そういう私まで思わず敬語になってしまったのを、聞いていたのかいなかったのか、樋口さんは撚れた黒いジャケットの内ポケットに手を突っ込んで、
「13,000円、確認お願いします。」
と言った。ポケットが小さかったのか、白の薄い封筒は、両端がくしゃくしゃしていて、不思議と手によくなじんだ。
「ブロッサム」までは歩いて10分ほどだった。
樋口さんは女性には慣れていない様子だったけれど、ぎこちなさを隠せないまま、努めて車道側を歩いたり、時々前につっかえながら私のロー・ヒールに目を遣ったりしてくれた。但し、日比谷線の遅延の話をしながら歩く間、樋口さんは腕を組むどころか、手をつなぐ素振りも見せなかった。まるで、「男」という社会的生き物に課せられたルールを粛々とこなしているみたいに。
目黒川沿いの通りを曲がって小径に入り、少し歩いたところで、
「ここです。」
と樋口さんが右手の建物を指差した。看板の白い文字の柔らかなゴシック体。檜材のように深みのあるオレンジ。その全てが合わさって、予想を超えない程度の穏やかさが醸し出されていることに、私は安心する。
樋口さんがドアを開けてくれると、くぐった頭上のドアベルに軽やかに迎え入れられたような感覚になる。私くらいの歳に見える女性の、何名様ですか、という早口な問いかけに、樋口さんは私を制すように勢いよくピースサインを突き出した。
店は適度に空いていて、私たちはドア横の窓側の席に通された。奥側のソファに腰かけて荷物かごを探りながら、私は店内を改めて見回す。一面木張りの壁といい、向こうに見えるこぢんまりとしたキッチンといい、全てが暖かくて、それはちょうど、焼きたてのパイから仄かに立ち上る湯気くらいだった。
「ここにはよく来られるんですか?」
樋口さんが両腕を木のテーブルに置いたのを見計らって私は訊いた。丁寧語を取り払うことは、もう考えないことにしていた。
「よく、ってほどでもないんですがね、偶に。」
へえ、と私が無理に口角を挙げたのに気付いたのか、樋口さんは二の句を継ぎ足した。
「実はつい先週も来たんですよ。」
「え、そうなんですか、よかったんですかこのお店で。」
「ええ。ここのチェリー・パイはいつ食べても飽きません。」
樋口さんは笑った。今日初めて見る、樋口さんの、純粋で自然な笑顔だった。
メニュー表のデザインは、落ち着いた白地だった。注文は、樋口さんがブレンドコーヒー、私は何となくレモンティー。そしてもちろん、チェリー・パイを2切れ。
「ところで、恋愛小説がお好きなんでしたよね。」
ネイビー一色のエプロン姿の店員さんの後ろ姿を何となく目で追っていると、樋口さんが言った。慌てて樋口さんの方に向き直ると、樋口さんは重そうなボストンバッグを膝の上に抱え直して何やら探しているようだった。
「ええ、まあ。」
「この作家さんが好きとか、この作品は良かったとか、ありますか?」
この質問は想定内だった。私は何人かの女性小説家の名前を挙げながら、適度に、そうですね、とか、えっと、とかを混ぜ、注意深く話した。
「そうですか、じゃあ多少はお口に合うかもしれないな。」
そう言って樋口さんがバッグから取り出してきたのは、想定された幅から大きく膨らんだクリアファイル。その中には、黒とか赤とかの文字で埋め尽くされた原稿用紙たち。小学生以来見てこなかったオレンジ色のマス目が存在感をなくすほど、遠目で見ても分かる力強い文字だった。
「実は、小説を書いてましてね。」
呆気に取られて私が何も言わないのをいいことに、樋口さんは話を進めてしまう。
「これはそれこそつい先週に書き上げたものなんですが、もしよかったら読んでいただけないかな、と思いまして。」
私は思わず眉を顰(ひそ)めて、そして慌てて皺を引っ込めたのだが、恐らくその全てがばれていることだろう。30枚はあろうかという紙の束が、クリアファイルから離れて私の両手にやってくる。一番右にマスからはみ出すように書かれたタイトルを見て、私は目を丸くした。
『ブロッサム』。
「樋口さん、『ブロッサム』って……」
「まあ、読んでみてください。」
樋口さんは、既に最初の堅い表情に戻っていた。私は言われるがまま、樋口さんの鋭い眼と力強くペンを握る手を想像しながら、文字を目で追った。レモンの香りが、爽やかさと強さのちょうど真ん中あたりを保ちながら鼻へ抜けていく。さっきの店員さんが、レモンティーを私の前に置くときに、私の原稿用紙に上から目を遣って、顔を顰(しか)めたのが分かった。
結局、32枚の原稿を読み切るのに、30分も費やしてしまった。
私が読んでいる間じゅう、樋口さんは膝に手を置いて、所在無げに俯いていた。最初は私のことをじっと見つめていたのだが、視線が気になる、というと、小さく、すみません、と言って、それからはずっと俯いたままだった。
一瞬だけ、樋口さんが表情を崩したのは、チェリー・パイが運ばれて来たときだった。
キツネ色に焼かれたパイ生地に、これでもかと詰められた深い紫のチェリーは、甘酸っぱい匂いを目いっぱい主張していた。私がフォークを手に取ろうと原稿用紙を脇へ置こうとしたとき、樋口さんは声量を押さえた声で、
「まだ熱いですよ。」
と言った。
「多分、それを読み終わる頃には、食べごろでしょう。」
まだ3分の1も読み終わっていなかった私は、唐突なお預けへのもやもやを感情に出さないように気を付けながら、小説へと戻った。私を見てほしい、と言わんばかりのチェリーの匂いが、気にならなくなったのは、いつからだっただろう。
リアル、という曖昧な言葉は、きっとこの文章を形容するには不十分で、軽薄だ。しかし、小説家の男と大学生のずっと若い女性、服装の違い、会話のかみ合わなさ、将来に霧がかかった男の危うさ、それを冷徹な眼で見つめる女性、そして――。交わされる棘のある言葉の一つ一つが、自分の耳のすぐ近くで聞こえてくるようだった。
「すごい、ですね。」
私は目線をどこに向けていいか分からなかった。両手からは力が抜けていて、原稿用紙は親指に引っかかっているだけだった。
「お気に、召しませんでしたか。」
樋口さんは、私の表情の抜けたような顔を見て、そう判断したのかもしれない。
「ち、違います! そういうわけじゃなくて、」
原稿用紙から目線を移すと、樋口さんは途轍もなく悲しい顔をしていた。まるで、この小説の主人公がここにいるかのように。
「ごめんなさい、うまい表現が見つからないけど、すごいリアルというか……、私、普段は普通の大学生だし、こんな激しい恋愛経験したことないんですけど、この二人の会話が文章だけでも想像出来ちゃったし、なんか映画を観終わった後みたいな……」
自分の仕事の外の話をしてしまうのは、これが初めてだった。白石きらりとしてではなく、佐藤恵としての生活。人並みに要領よく単位をとり、サークルの飲み会に適当に参加する。感動のない、大学生というシナリオの上を歩くような暮らし。散らかった6畳1間、ベランダに鮨詰めに吊るされた一人分の洗濯物。
「ありがとうございます。」
樋口さんは、テーブルに隠れるほど深々とお辞儀をした。どうしていいか分からずに、私がした礼は中途半端な角度になった。
「実は、今日色よい評価が貰えなかったら、筆を折る気でいました。」
え、と声が出そうになる。原稿用紙が落ちそうになって、慌てて握り直そうとした手は、少し震えていた。
「実はそれ、私と彼女――元カノがモデルなんです。」
「……はい。」
「仕事も日雇いで、小説は鳴かず飛ばずで……。親にもここ数年顔を見せられてないし、ついに彼女にも見限られてしまいました。私たちの関係って、何なの、と……。」
樋口さんは鼻で嗤った。こんなとき、どうすればいいのか、私には分からなかった。ただお互いが空気に酔って終わる普段のエチュードのような2時間と、レモンの酸っぱさと珈琲の苦味が混ざった匂いに包まれた樋口さんとの2時間は、私にはあまりに違いすぎた。
「どうして、私に……?」
私は訊いた。たったの21歳で、恋人の真似事しかしてこなかった私に課された責任は、あまりに重い。
樋口さんは腕組みをして、また少し俯いた。どうして、への答えを探しているのか、言葉を選んでいるのかは分からなかった。
「……未練が、あったのかもしれません。」
「――は?」
「僕を知らない人に読んでもらいたい、というだけなら、例えばバーなんかでお客を適当に捕まえて読んでもらえば済むことです。でも、心のどこかに未練があったから。心無く、適当に邪険な評価をされるのが怖かったから、まだ書きたい、書きたい、という気持ちがあったから――」
樋口さんが私を見つめる。樋口さんは不器用な人だ。でも、否、だからこそ、樋口さんの眼は誰よりも――少なくとも私よりも、ずっと真っ直ぐで、かけがえのない尊さがある。
「身勝手ですよね、何だか申し訳ないな。」
何も言わずに、でもしっかりと、樋口さんに分かるように首を横に振りながら、私は原稿を樋口さんに返した。樋口さんは書かなければいけない、と思った。これからも、ずっと。樋口さんの生きた証を、この世に残すために。
それからの1時間は、あっという間だった。
私たちは、色々な話をした。私のこと、樋口さんのこと、樋口さんの小説のこと、そして、これからのこと。
中目黒駅からの帰り道が反対方向だったので、そこで別れることにした。
「ありがとうございました。」
店を出るとき、樋口さんは私の目を見て言った。社交辞令ではなかった。
「いえ、こちらこそ。」
私は思わず言った。
「何がです?」
樋口さんに訊かれて、私は、何がだろう、と思った。色々な「こちらこそありがとう」がそこにはこもっていたけれど、私はその中で、一番口当たりがいい「ありがとう」を選んだ。
「チェリー・パイ、ご馳走になっちゃって。」
小説を読んでいる間に程よく冷めたチェリー・パイ。蜜を吸ったパイ生地はしっとりとしていて、皿の上に溢れ出る大粒のチェリーは何故だか愛おしかった。そして、その甘酸っぱい匂いとは裏腹に、チェリー・パイは力強く、それでいて優しい甘さを湛えていた。
「美味しかったでしょう。」
樋口さんは笑う。チェリー・パイの話をするときの樋口さんの顔が、好きだ、と思った。小説の中にも出てきた、チェリー・パイ。彼女だった女性と幾度となく口にしてきたであろう、チェリー・パイ。それでもきっと嫌いになれないくらい、忘れられないくらい、優しい味のチェリー・パイだった。
「はい。」
私ははっきりと言った。
「また食べに来ましょう。」
樋口さんは一瞬驚いた様子だったが、それから、チェリー・パイ顔負けの優しい声で、
「ええ。」
とだけ言った。
中目黒駅の改札をくぐる。忙しない人の行き来の中で、樋口さんを改札へ向かう階段まで見送った私は、改札の外を一瞬振り返る。人の頭の隙間から、見え隠れする山手通り。
またいつか、ここに来よう、と思った。
佐藤恵として、樋口さんのように凛として、そして今度は、桜の花が舞う頃に、またあのチェリー・パイを、食べに来よう、と思った。